【男女平等】個人の意識は変えられなくても、社会構造は変えられる!法やシステムから見直しを

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本日は、「日本を男女平等な社会にするための現実的な方法」について、学びなおしならぬ考え直し。

まず、大前提として私が考える「男女平等」とは、下のような意味合いです。

  • 出産・子育て・事故・病気・家族との死別などの「自助を超えて共助・公助が必要な環境下」において、誰もが差別されることなく同じ扱いを受けられること(働く意思があれば働ける、同じ額のサポートが受けられる)
  • ジェンダーの違いによって、職業選択・教育・扶養・経済活動・法の解釈などが変わることなく、同じチャンスと責任を得ること

上の2つを平たく言ってしまえば、「社会構造上で男女による違いを設けず、対等であること」という意味になりますね。

もちろん、男性と女性は身体の作り・脳の仕組み・ホルモンバランス・遺伝子・歴史など、あらゆる部分で違います。「生物的に違うのだから、社会的にも違いがあって当然」というのが、従来の考え方でした。

それがそのまま反映された言葉が、森喜朗氏による「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」ですよね。

私がかつて読んだ生物や歴史の書物にも、「女性は、狩猟民族時代の名残から、コミュニケーションを重視し雑談や長話を好む習性がある」と書かれていました。現代学問においてまだ同じことが唱えられているかは未確認ですが……経験則として、確かにそういう部分はあると思います。

でも、女性の話が長いことと、それを社会的に排除して良いか悪いかは全く別の問題ですよね。また、会議が早く済めば、それだけ有意義な話し合いになるのかという点にも疑問が残ります。

ただし、私は内心「森さん、すごくいい仕事したな~」と密かに思っているのです。

森喜朗氏の最期の仕事は「バッシングされること」だと思う……

ご本人には、非常に失礼な言い方になってしまいますが……。

森会長だけではなくて、人種差別で話題となったDHCの会長についても同じことが言えます。

年齢・キャリア・頭の堅さからして、彼らを改心させることは到底不可能です。

であるならば、やはり彼らが社会にできることって、「こういう大人になってはいけない」と身をもって次世代に伝えること。自らを公のもとにさらして、バッシングを受けることでしかないのだと思います。

現に、森会長の失言によって、国内外で抗議活動が起こっています。いつの時代も「共通の敵」が見つかれば人々は団結し、大きく時代を動かす力となるものです。(良い悪いは、別として)

映画『RBG』は、「女性蔑視をデモではなく、法律によって変えよう」と教えてくれた

森会長の失言によってかよらずか……タイムリーにNHKが放送した、ドキュメンタリーが話題になっています。

タイトルは、『RBG 最強の85才』。

ルース・ベイダー・ギンズバーグ(RBG)という、アメリカの法律家のインタビューとエピソードを描いたものです。

彼女は、当時には希少であった女性弁護士として、女性差別をはじめとするマイノリティの権利のために活躍し、1993年にはビル・クリントン大統領によって連邦最高裁判事(陪席判事)の職に就きます。さらに、2020年9月に他界するまで最高齢の女性最高裁判事として仕事を続け、そのパワフルな生き方と職務へのひたむきさが米国内で大きく取り上げられるようになりました。

「これは今こそ見るべきだ!」と感じ、私もアマプラにてさっそく鑑賞。強く感銘を受けましたね。

ドキュメンタリーの詳細については、また別のブログ記事でしっかり取り上げたいと思います。
ここで書いておきたいことは、RBGが一貫して女性差別などの問題を「怒りや争い・デモではなく、法に則ってシステムから変えていこう」と冷静に活動し、着実に社会を変えていったという点です。

怒りに身を任せれば一時は大きなエネルギーを発するかもしれませんが、いつかは鎮静化し忘れ去られてしまうことが多いのです。

また、他人の価値観や感情はコントロールが利かないもの。だからこそ時代に適さないルールを地道に変えていくことでしか、男女平等をはじめとする社会問題は根本的に解決しないのだと思います。抗議活動は問題提起のきっかけに過ぎず、その先が肝心ということですね。(さらっと簡単に書いてしまいましたが……険しい道のりです)

ちなみに、ブログでは今回のテーマ上「男女平等」という言葉を用いましたが、「平等」と「公平」の違いもまた難しいものです。人々が多く幸せを感じることができる社会とは、果たして「男女平等」「男女公平」どちらなのか……。

意見「個人的な感情を排除して、善悪ではなくて、時代に合わないシステムを見直すという流れが理想」

最後に、お時間があれば読んでいただきたい記事があります。

それは、スプツニ子!さんによる日経BP「個性の時代。性別は関係ない」と言う前に見るべき現実という記事です。(ログインが必要ですが、無料で読めます)

私はこれを読んで、「制度的人種差別」と「構造的性差別」という言葉を初めて知りました。

私たち一人一人の中では差別的な意識がなくても、社会構造の中で差別は生み出されるという意味です。

例えば女性役員を積極的に起用する動きについても、人によっては「性別関係なく単純に能力で選べばよい」という声が聞かれます。しかし、組織の構造上、女性が能力だけで果たして上へあがれるシステムになっているかを、もっとしっかり見直す必要があるのです。育休制度や人事異動・給与体系など、女性がキャリアアップするための弊害はたくさんあるはず。
それなのに現状で見直されていないとするなら……やはり「差別を受けている側の人たちがシステムを変える立場にいる」というだけで、構造的性差別を解決するための大きな意義となるのです。

また、会社だけではなく、「構造的性差別」は教育・家庭など様々なところに潜んでいます。

それらを今回のような森会長の失言などから炙り出して、一つ一つ変えていくしか有効な手段はないのではないでしょうか。

今、女性蔑視が大きく取り上げられていることはチャンスです。これを一時的な問題にせず、システムからの根本的解決へ繋げてくれることを政府には切に望みます。

また、望むだけではなく、私個人としても何ができるか考えてみますね。

では、また次回!

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2件のコメント

  1. 西洋と東洋などの距離に関係無く情報が伝達する社会では均質化が進み世界には様々な価値観が溢れていると知るところとなりました。みんな結果を直ぐに求めて叶わないと思っていますが100年後の世界では男女格差は無いかも知れません。何故なら誰もが情報にアクセスできるからです。他の国ではそんなこと無いのに何故うちの国だけってなりますよね?

    1. いつもありがとうございます。確かに、ネットの普及によってそれまで閉鎖的だった世界が一気に広がり、誰もが自分の置かれている立場の矛盾に気づくことができるようになりましたよね。男女格差が無くなるまであと100年……長いなぁ、もっと早く来てくれないかなぁ……(なーんて)。

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