face in the clouds

36歳になった。

厄年はなはだしい毎日で、正直、例年以上にお疲れモードである。

そんな中、変わらない家族との時間、仕事があること、ご飯がおいしいこと、安らかに眠れることが、これまた例年以上にありがたい。

「厄年って、実際どんな感じなんだろう」と思ったけれど、私の場合はとにかく「もらい事故」的な出来事が多い。小さなことでは連続ドタキャン、プロジェクトの中止、人間関係のいざこざに巻き込まれるなど。どれもあからじめ回避できる話ではなく、こちらは受け身でいることしかできない。まあ、自分が元凶というケースが少ないだけ、まだ少し気は楽だったりするのだが。

一方、こんな事態を察して数年前から健康にはとにかく努めてきた。不安の種は治療して、生活習慣も改善してきたので、今のところ体調は比較的良好。体よ、これからもどうか頼む。

デジタルは限りなく「自然」、お金は「水」のようなもの

厄年の影響はそれだけじゃなくて、今年は例年以上にいろんな「声」が聞こえる。

最近はよく洗濯物を干しがてら、風に乗ってきた声を拾うのだけど、その時の私が「AIとの共生がうんぬんかんぬん」と頭の中で考えていたものだから、こんな声が聞こえた。

『自然じゃないものなんて、この世にあるのかい?』

なるほど、AIやデジタルなものはこれから先、限りなく自然と融合するようだ。デジタルはまるで雲のように人を凌駕する存在であり、時に牙を剥くけれど、人はそれを過度に恐れたり敵視したりはせず恩恵を受け、災害を防ぎながら共生しようとするだろう。デジタルはまるで巨大樹のように、暮らしに根をはって必要不可欠なライフラインとなるが、人間は決して支配したりコントロールできるものではない。そして、AIやロボットは動物、いや、妖怪のように「人間じゃないけれど限りなく人間に近いもの。仲良くできるけれど、関係性を間違えるとちょっと怖いもの」になっていくのだ。

なんとなく私が見た未来は、ドラえもんやSF的な世界観ではない。どちらかというと、古来の日本に伝わるような伝承の世界。ゲゲゲの鬼太郎みたいな世界観のほうが近い。

そんな「声」に載せたメッセージなのか映像なのかが、どこからともなくどんどん降って来る。余裕がある時はそれでいいけれど、急いでいる時にも強制ストップがかかるから、なんだかな。

そうそう、そんな未来の中で、お金は「水」みたいなものだって。雲から降り注いでくる雨のように、森を循環する川のように、人間の体を通り過ぎていく水分のように、お金もデジタルな形で世界を巡っていくようになるって。

ついでに言えば、自分自身に起こる「もらい事故」も全部自然の理であり、私が厄年でへとへとなことも、声が聞こえることも特別なことじゃなくて、もう大きな自然の中のささいな出来事だから、「堪忍しなさい」って言われた。

で、この先ははっきり言ってもらえなかったけれど、正式に年を重ねて、これからもう少し私の中で厄年的な機運が加速する予感しかしない。丙午の年であることも、私にどないせえ言うねんって感じだけど。やるべきことがある、逃れられないと腹をくくるしかないんだわ。

神様仏様。こちらできることはしますゆえ。どうかどうかこの身の安寧と家族の息災を約束してくだされ。(今年は何度がご祈祷にいこうかな)

では、また次回!

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